「めんどくさい」っていう感覚はなんで生じるのか考えてみた

「めんどくさい」と思う時ってどんな時だろうか。
例えば、過去の自分が、今の自分に課した作業をしなきゃならんとき、「めんどくさい」って感覚にみまわれるような気がしませんか。
その時の自分は非常にやる気があったのかもしれない。しかし、今の自分とはテンション真逆の、ほとんど別人みたいな自分が考えたことを押し付けられているのだから、今の自分としてはちょっとたまったもんじゃない。まじ空気読めよ…とか思う。それが「めんどくさい」という感覚になるんじゃなかろうか。
犬とか猫には、面倒くさいという感覚はなさそうだ。体が飯を欲しいと思ったら、いくら危険なことだろうと飯を食うために動き始める。それはたぶん、「めんどくさい」という感覚ではない。
「めんどくさい」というのは、美味しそうだと思って皿に盛り過ぎたバイキングのご馳走をなんとか処理しなくてはいけないような、そんな感覚に近いのかもしれない。
その場その場のテンション、思いつきだけで生きることが出来たなら、多分、「めんどくさい」なんていう感覚は生まれないのだろう。
ToDoなんてものを作るから、「めんどくさい」という感覚にまみれてしまうのだろう。
アイロンがけだって、やりたい時にやったらそれは気分転換という娯楽にだってなるのだ。
風呂に入ったり勉強したりもそうだ。汗をかいて体がベトベトしているようなときの風呂は最高の気分で浸れる。それが、テレビがいい場面に差し掛かっているようなときに、親から「さっさと風呂に入りなさい!」なんて言われるもんだから「めんどくさい」ってことになるのだ。
何かをつくろうとしているんだけど方法がわからない。インターネットで調べたり人に聞いたりして方法を見付け出す。そうして覚えた手続きはエビングハウス忘却曲線なんぞ意識しなくても一生忘れることはない。それを、今の段階で一体何が重要なのかよくわからないような知識を勉強として秩序立てて頭に入れようとするから、「めんどくさい」ってなる。
(勉強したり、ToDoを作ることが悪いとかそういう事ではなく、「めんどくさい」について考える上で分かりやすいと思ったから例にあげてみたのでした。)

じゃぁどうすれば、できるだけ「めんどくさい」って思わずに色々なことに取り組むことができるんだろうか?
おそらく、「昔の自分に合わせる」ことなく、「他人に合わせる」ことなく、何でもかんでも今の自分のタイミングで実践することができたなら、「めんどくさい」なんて感覚は生じないんだろうなーと思う。
そして、そんなことほぼ不可能だなーってことも同時に思う。
つまりは、ある程度、「めんどくさい」って感覚はしかたがないものとして上手に付き合っていこう、っていう態度が必要なんだろなぁ。
でも、それってむしろ、気が楽な気がしないでもない。
「めんどくさい」って感覚は、昔の自分や他の人達とお付き合いして生きていく上ではどうしても必要な感覚であって、「楽しめていない自分」を責めることはない、っていうことでもあるしね。